無色の緑の考えが猛烈に眠る。
カテゴリー「失笑」の記事一覧
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よっこいしょ。
二十歳を超えて、自分は環境にあまりに恵まれすぎてるなと考えるようになりました。
なので、今の苦労はその代償だと考えるようにして、過ごしているのだけれどその中でさらに楽しみを見つけてしまうのだから、ポジティブを通り越して馬鹿。
馬鹿で良かった。
小まめに連絡をとらなくても友人関係が継続されているというのはとても良い。
久しぶりに会っているのにその感覚がないというか、まぁ要は気を使わないっていいことだね。
浅く広くの友人関係より深く狭くがちょうど良い。
お了い。
二十歳を超えて、自分は環境にあまりに恵まれすぎてるなと考えるようになりました。
なので、今の苦労はその代償だと考えるようにして、過ごしているのだけれどその中でさらに楽しみを見つけてしまうのだから、ポジティブを通り越して馬鹿。
馬鹿で良かった。
小まめに連絡をとらなくても友人関係が継続されているというのはとても良い。
久しぶりに会っているのにその感覚がないというか、まぁ要は気を使わないっていいことだね。
浅く広くの友人関係より深く狭くがちょうど良い。
お了い。
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隣の芝は青いものです。
他人の幸せが恨めしいとは、残念ながら思ってしまうものだね。いや、思わない人もいるか。
まぁでも今回は思ってしまう前提ではなしをすすめよう。
とはいえ、隣の芝青いとしても、色なんて所詮光の屈折と目の細胞の数の差なのでこればっかりは自分の問題なのね。
立っている場所を移動するか、もしくは人より細胞の少ない自分の目を恨むしかないのね。
そうそう、人ってみんな微妙に色の見え方違うんだぜ。面白いね。
隣の芝は青いもの。
自分の芝を青くするか、現状に満足するかは本人次第だけど
自分の芝も隣から見たら青いって話。
いつも毒しかないから綺麗なこと言おうと頑張ってるけど無理してる感。
他人の幸せが恨めしいとは、残念ながら思ってしまうものだね。いや、思わない人もいるか。
まぁでも今回は思ってしまう前提ではなしをすすめよう。
とはいえ、隣の芝青いとしても、色なんて所詮光の屈折と目の細胞の数の差なのでこればっかりは自分の問題なのね。
立っている場所を移動するか、もしくは人より細胞の少ない自分の目を恨むしかないのね。
そうそう、人ってみんな微妙に色の見え方違うんだぜ。面白いね。
隣の芝は青いもの。
自分の芝を青くするか、現状に満足するかは本人次第だけど
自分の芝も隣から見たら青いって話。
いつも毒しかないから綺麗なこと言おうと頑張ってるけど無理してる感。
「才能がある」は褒め言葉か否かという話。
例によって念願のポツネン氏の奇妙で平凡な日々のチケットが手に入り浮かれまくってる私。
今年の誕生日は仏滅だったが幸先は良さそうだ。
で、小林賢太郎といえばラーメンズの舞台を覚えるほど見ていて、たまに演目同士の暗黙の接点というようなところがありそこも私が好きな点。
なので、きっとポツネン氏の舞台もそういうところがあるのだろうと可能な限り視聴させていただいた。
そんな中で、常々思うのは「神は2物3物あたえるものだなぁ」ということ。
絵が描けて演技ができて声がいい。そしてなにより奇想天外な発想力。
羨ましいことこの上ない。
「才能があるとはこのことだろう。」
だが、演目後のコメントで
「コントをたくさん考えた」
「ボツには没になるなりの理由がある」
等の発言を苦笑しながら言う姿を見て先に述べた件を疑問に思ったり。
「才能がある」は第三者からしたらこの上ない。褒め言葉だとは思う。けど、当の本人からしたら「才能がある」の一言で終わらされてしまっているんじゃないか、ということ。
そこにどれだけの努力が隠されていたとしても「才能がある」の一言で努力は全て否定されてしまうんじゃないか。
努力の過程を人に見せるものではないが、かといって安易に「才能があるね」というのは問題かな?など思うので
最近は小林賢太郎は才能がある、というよりすげぇ、と語彙の少ない小学生並の感想になってしまうのであった。まる。
何が言いたいってはやくポツネン氏を見たいのだ。
例によって念願のポツネン氏の奇妙で平凡な日々のチケットが手に入り浮かれまくってる私。
今年の誕生日は仏滅だったが幸先は良さそうだ。
で、小林賢太郎といえばラーメンズの舞台を覚えるほど見ていて、たまに演目同士の暗黙の接点というようなところがありそこも私が好きな点。
なので、きっとポツネン氏の舞台もそういうところがあるのだろうと可能な限り視聴させていただいた。
そんな中で、常々思うのは「神は2物3物あたえるものだなぁ」ということ。
絵が描けて演技ができて声がいい。そしてなにより奇想天外な発想力。
羨ましいことこの上ない。
「才能があるとはこのことだろう。」
だが、演目後のコメントで
「コントをたくさん考えた」
「ボツには没になるなりの理由がある」
等の発言を苦笑しながら言う姿を見て先に述べた件を疑問に思ったり。
「才能がある」は第三者からしたらこの上ない。褒め言葉だとは思う。けど、当の本人からしたら「才能がある」の一言で終わらされてしまっているんじゃないか、ということ。
そこにどれだけの努力が隠されていたとしても「才能がある」の一言で努力は全て否定されてしまうんじゃないか。
努力の過程を人に見せるものではないが、かといって安易に「才能があるね」というのは問題かな?など思うので
最近は小林賢太郎は才能がある、というよりすげぇ、と語彙の少ない小学生並の感想になってしまうのであった。まる。
何が言いたいってはやくポツネン氏を見たいのだ。
集団的自衛権はやばい、っていうのがいよいよわかってきたのですが、そこからどうすればいいのかというのがわかりません。これがゆとり。
いやもはやゆとりという言葉を借りて積極性を失っているだけな気もしますけどね。
まぁ自分のことで精一杯なんですよ、私は。
何をすればいいのか教えてください。
ようやく考えがまとまったのですが、私は人の意見を聞いて自分の中で理解して発言するという作業がとても下手で時間がかかるようです。
それゆえ会話に遅れてどんどんログアウトしてしまい、いつしか聞きに徹するようになっていました。
話を聞くことは苦ではないんですがね、たまには私も話がしたい。
しかしまぁいざ話をしようとするといろいろな言葉が押し寄せてきて結局伝わらないっていうオチになるんです。
それが辛くて辛くてもう人と接するのが嫌になっちゃうこともしばしば。
甘えっていわれちゃえばそれまでなんですけど、でもやっぱり伝わらないって辛いです。
それが転じてこうして一人で壁に独り言を言うようになったわけですけど。
どうやって鍛えればいいんですかね。
お了い。
いやもはやゆとりという言葉を借りて積極性を失っているだけな気もしますけどね。
まぁ自分のことで精一杯なんですよ、私は。
何をすればいいのか教えてください。
ようやく考えがまとまったのですが、私は人の意見を聞いて自分の中で理解して発言するという作業がとても下手で時間がかかるようです。
それゆえ会話に遅れてどんどんログアウトしてしまい、いつしか聞きに徹するようになっていました。
話を聞くことは苦ではないんですがね、たまには私も話がしたい。
しかしまぁいざ話をしようとするといろいろな言葉が押し寄せてきて結局伝わらないっていうオチになるんです。
それが辛くて辛くてもう人と接するのが嫌になっちゃうこともしばしば。
甘えっていわれちゃえばそれまでなんですけど、でもやっぱり伝わらないって辛いです。
それが転じてこうして一人で壁に独り言を言うようになったわけですけど。
どうやって鍛えればいいんですかね。
お了い。